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です。私も足をガラス等で切り血まみれですが、不思議と痛みは感じません。少し
時が経ち、近くの中学校のグランドへ。皆でテントを張り、マットを敷き、余震に
怯えながら3日程飲まず食わずです。今程の情報も無ければ電話もありません。4
日目は、初めて空よりチキンラーメン。トイレは側溝、皆不平ひとつ言いません。
人はいざとなると、思う以上に強いものです。
 チキンラーメンを子供達に作っている時、テントの入り口に岡山の叔父が迎えに
来て立っていたのには、ビックリしました。だけど長女がいません。何度も家の門
にメモを置きました。翌日「お母さん、私は生きています。何度探しても会えない
から、友人の別荘が三木市にあり、ついて行くから心配しないで」と。次女と二人
で岡山に行く決断をしました。
 行く前に、2階より少しでも取り出せる物があるならと、自宅の門に行くと、い
つも遊んでいた近所の男の子が、遺体で自衛隊の方に運び出され、側でお母さんが
起きなさい、起きなさい≠ニ泣き叫ぶ声が。私は自分がとても恥ずかしくなりま
した。何が厚生年金手帳よ、保険証よと。この命があっただけで充分ではないかと。
大地に両足で立って、この身があるなら又、一生懸命働けば良い。失ったものは又、
頑張れば手にできるけど失った命は帰らない。この生かされた事に感謝し、人は一
人では生きていけない事、この世でまだしないといけない事がある事等、色々な価
値観が変わりました。
 岡山で3、4ヶ月団地に入り、次女と暮らしました。その中で、神戸市より連絡
で家の解体に立ち会って欲しい旨、1週間かけ一人で神戸に戻りました。解体時、
せめて写真1枚でもと思いましたが、水と泥まみれでダメでした。積み上げてきた
すべての物、写真1枚ありません。マイナスからの出発ですが、不思議と生きる勇
気と頑張ろうとの気持ちが、心・体の中からフツフツと湧いてきました。嘆いてい
る暇などないのです。前を向いて、この娘が嫁ぐまで親としての責任があると、神
戸より5月の連休明けにライフライン復旧、以前住んでいたマンションの家主さん
と連絡がとれ、一部屋空いているとの事、すぐ契約し、5月末に神戸に戻りました。
幸い会社は大阪だった為、すぐに仕事につけました。たとえ余震続きでも、揺れに
慣れました。
 外見的には神戸は復興が早いと申しましても、被災者一人ひとりは二重ローンを
抱え、経済的には大変なものです。全壊100万、半壊70万、とうてい再建には程遠い
額です。結局自助努力でしかないのです。60才定年まで二重ローンを抱え、必死で
働き無事完済し、定年2ヶ月前には次女も結婚し、ちなみに長女は震災の翌年に結
婚。親としての役目も果たせ、無事定年退職致しました。私の震災が終わった日で
もありました。あの日から16年の歳月でした。
 命があれば何とかなります。その命を大切にする為に一日一日を日々丁寧に生き
て、健康管理もしっかりと、そして周りの人々を大切に。日々の積み重ねと心掛け
だとつくづく思っております。
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